サイコパスと自己愛

サイコパスにはナルシストが多く、「自己愛性人格障害」と混同する人がいる。

今回は 岡野憲一郎 著「自己愛的な人たち」を参考に、両者の違いを「自己愛」から見ていこう

 

健全な自己愛

僕らは必ず格差社会のどこかに位置する。

部活動でも「下級生」や「上級生」といった区分がある。あなたが下級生のとき、上級生が不快にならないよう“想像力を働かせて”振る舞ったと思う。

一方であなたが上級生になると、周りに下級生しか存在しなくなり、逆に気を遣ってもらう側になる。

もちろん下級生にも、上級生から可愛がってもらったり技能を教えてもらえるといったメリットがあるので、上級生がパワーを乱用せずギブアンドテイクが成り立つ限り、それは「健全な」関係と呼べそうである。

 

「健全な」自己愛を持つ人には保つべきプライドがあり、それが傷つけられそうになったときには、それを回避すべく行動を起こすことができる。

そのプライドは等身大のものであり、自分の社会的な立場を鑑みたものになる。

ところが、自分にアドバイスしてくれたり、いさめてくれる存在が周囲にいなくなると自己愛が肥大化し、自分の意に沿わない人がいると腹が立ち、攻撃してしまうようになる。

これを「病的な」自己愛としている。

 

病的な自己愛

自己愛性人格障害の人は、「下級生」から「上級生」へ叩き上げられる過程である種の鈍感さを学習してしまった人だ。

もはや「下級生」に対する想像力は微塵もなく、気に入らない格下の人間に対してパワーを乱用する。

ところが、彼らは家に帰ると妻の前では小さくなったり、新しい環境では「下級生」として振舞うようになるなど、対人関係における敏感さを取り戻すこともある。

 

一方、サイコパスは学習せずともこの「鈍感さ」をもつ

彼らは生まれつきの特権階級だ。たしかに、文字通り特権階級者のように振舞えば淘汰されてしまうだろう。しかし、「成功したサイコパス」は仮面を使って周囲の人間を巧みに欺き、踏み台にすることで真の特権階級を手にする。

重要なことは、その中で「上級生」に対する敬意など微塵もないということだ。格上の人間に可愛がられても心の中では鼻で嗤い、格下の人間には残虐な振舞いをする。

 

ここまでが本書の一部をまとめたものだ。

言うまでもなく、自己愛性人格障害サイコパスのような自己愛が健常者に見られることもあるだろう。問題はその程度と持続性だ。

 

この本を読むと、自己愛性人格障害が可愛らしく思える。

彼らは理想の自己イメージと同一化を図り、それに一喜一憂しているだけだ。

それはヒーローに憧れる子供と変わらない。

たしかに格下に攻撃的な面もあるが、それは「自分の意に沿っていないから」といった感情的な理由が多い。そういった人達を操るのはむしろ簡単で、その方法は今まで述べた通りだ。

 

問題はやはりサイコパスだ。

彼らは明らかに他人を「モノ」として見ている。あくまで目的は「地位」や「金」といった物質的・非人間的なものだ。(賞賛を求める場合もあるようだが)

そのため、自己愛性人格障害人とは対照的に、下手なお世辞は通用しないと考えたほうがよい。

 

また、彼らが意に沿わない人間に対して怒りを向けるのは、「その人を従わせるために怒りが有効な」場合に限られる。自制心を備えたサイコパスが、気に入らないという理由で(感情的に)怒ることはない。

 

怒りだけでなく泣き落とし、脅し、責任転嫁など、手段を選ばず「従わせるためにどうするか」だけを”冷静に”考え、"熱っぽく"演技することもできるだろう。

ただし反社会性が高いサイコパスの場合、恫喝して相手を屈服させること自体が快楽になっているかもしれない。面白いから怒るのだ。

 

いずれにせよ、「そのような手段は通用しない」と思わせることが重要になる。

「対人関係理論」で見たように、彼らは端から僕らを「敵」であると決めてかかる。そこでまんまと感情的な反応を示せば、晴れてあなたは敵として位置づけられてしまうだろう。それを防ぐためには、常に平然とした態度で応じることだ。

 

「こんな目に遭っているのに大人しくしろと?」と思うかもしれない。

だからといってキレても無意味だ。サイコパスに目をつけられた時点で、あなたは無視をすれば潰され、歯向かっても潰される運命だ。今までにも、そのような人と出会ってきたかもしれない。その時どう立ち回るべきかを今まで学んできたのだ。相手がこちらを「試している」と思えば、どんな挑発も真に受けずに受け流すことができる。

 

 

自己愛は「理想の自己イメージとの同一化」と言われている。しかし、サイコパスに理想の自己イメージはない。強いて言うなら彼自身が理想の自己だ。たしかにそういう意味では、彼らのナルシズムは極致に達している。

ところで、それは「ありのままの彼」を見抜き、尊敬を示すことが彼らの自己愛を満たす最善の方略であることを意味するのではないだろうか 。

 

それは単に共感や同情を示すことではない。彼らの攻撃を意に介さず、徐々に信頼関係を構築し、仮面を外した彼と心の中を晒し合い、互いにそれを認め合うことだ。

しかし、相手はいつ裏切るか分からないので、弱みになる部分は隠しておくか、嘘にしておく方がいいだろう。嘘をつくときは、本音の中に1つだけ重要な嘘を混ぜるようにするといい。

 

一方で相手の嘘や矛盾は敏感に察知し、何食わぬ顔で軌道修正する内に相手が本音を言うように誘導することができる。

大抵の人は、圧倒的な観察者の前で嘘をつくことができない

対等に渡り合うことのできる人間は、彼らの自己愛を満たすことができる。

 

彼らは理解されることを求めてはいない。

世界の中で彼は孤独な存在であり、他人は「モノ」に等しい。虫けら同様に扱って然るべきものであり、人生は勝利を積み上げるゲームに過ぎない。利用価値のない他人との「つながり」に興味はなく、利用した後に相手がどうなろうと知ったことではない。彼らの世界で考えたとき、そういった見方は一つの主義として認められるはずだ。

 

彼らの冷たく合理的な知性で考えたとき、人生とは常に「地球最後の日」を生きることに等しい。刹那的にやりたいことだけを行い、何の計画も持たず気の赴くままに他人を扱い、快楽を求める。それゆえ後悔や罪悪感や責任感といったものは、抱くだけ時間の無駄である。生温く退屈な”つながり”よりも、「そいつを使ってどう愉しむか」が重要なのだ。

 

彼らから尊敬をもって接してもらうには、そうした人間観を一部修正してもらう必要がある。自分には尊敬をもって接する価値があるということを示し、それを促すだけでいいのだ。

 

現代では、仮面を被ることに慣れ過ぎて「本当の自分」を見失い、孤独感を抱く人間がいる。逆に、これが「本当の自分だ」と分かった気になり、幻想に囚われている人間もいるようだ。

 

サイコパスなら、前者に対しては都合の良い役割を与え、服従することが喜びであると洗脳する。後者に対しては彼の信じるアイデンティティを褒め称え、機嫌を取ったところで搾取する。「豚もおだてりゃ木に登る」というが、高い所まで登らせてから切り倒すのが最も傷が深く残って愉快なのだ。

 

一方、仮面を被り続けること自体がアイデンティティと化し、「本当の自分」という理想を捨て去った人間がサイコパスだ。

彼は「本当の自分」を見出してくれるよう他人に期待することはない。それが「孤独感をもつこと」と「孤独であること」の違いだ。

それでも、期待していない所からやってきた「面白いヤツ」には興味を惹かれるものなのだ。

 

 

「われわれはあまりにも他人の目に自分を偽装することに慣れきって、ついには自分自身にも自分を偽装するに至るのである。」

「他人の虚栄心が鼻持ちならないのは、それがわれわれの虚栄心を傷つけるからである。」 

La Rochefoucauld

 

自己愛的(ナル)な人たち

自己愛的(ナル)な人たち