サイコパスを操作する

サイコパシーの理解から対策まで

サイコパス的リーダーは時代遅れ?

サイコパスにはリーダーの素質があると言われている。

サイコパスが多い職業ランキングでは、「CEO」が堂々の一位だ。

 

書店でも「感情的にならない」「いい人をやめる」といったサイコパス的な側面を推奨するビジネス書・自己啓発書が見られる時期があった。

他人を捨て駒のように利用し、ストレスフリーで結果を出し続けるサイコパスがストレスの多い社会人にとって1つのモデルになるのも頷ける。

 

しかし、サイコパス的リーダーの台頭は終わりを迎えようとしている。

今回は 落合陽一 著「日本再興戦略」を参考に、その理由を見ていこう。

 

日本人のパーソナリティ

日本のシステムは他国の「良いとこ取り」から成り立っていた。

たとえば法律には、フランス・ドイツ・アメリカの血が流れている。しかし最近では、こうした「良いとこ取り」のシステムが時代の変化によって「悪いとこ取り」になってしまったケースが目立つ。そのため「他の国ではこうなっている、日本も見習うべき」という自虐的な意見が見られるようになった。

 

ここで一旦「他国のどこを真似るか」といった議論をやめ、「そもそも日本には何が合っているのか」「これからの日本には何が合っているのか」を考えてみよう。

 

①フェアにこだわる日本人

日本人はフェアなゲームを好む。

「平等」にはこだわらないが「公平」にはこだわる。

平等とは、権利が一様に与えられていること。公平とは、システムに欠陥がなく不正や優遇がないこと。

 

「日本人は男女平等にうるさいよね」と思うかもしれないが、あれは「カッコいいから主張してみた」程度のノリで、所詮フランスの受け売りだ。

その証拠に、飲み会で「男が多く支払い、女は少なくて済む」という不平等なルールに対し「女をなめている」と怒る女性は見かけない。ただし「〇〇ちゃんは可愛いから特別に払わなくてもいいよ!」と優遇する男は全員から反感を買うだろう。フェアじゃないからだ。

 

こうした不平等への鈍感さは、「士農工商」的カースト制の復活を容易にする。また、フェアへのこだわりはAIや仮想通貨などの技術を受け入れやすくする。

事項でさらに詳しく述べよう。

 

個人主義を諦め、百姓のコミュニティへ

日本人は中途半端に「西洋的個人」を追いかけてきた。

海外の真似事が好きなのだ。

しかし、日本人に「個人」として生きる道は合わない。

 

「西洋的個人主義」が輸入されたのは1850年ごろ。

150年ほど経った今でも「国民国家」の思想は根付いていない。形だけは西洋的個人を追いかけたために、むしろ「孤独感」を抱いてしまう人の方が多い。これが「合っていない」何よりもの証拠だ。

 

江戸時代では、日本人の多くは百姓だった。

百姓の意味は「百の生業を持ちうる者」。「百姓」という身分差別はカースト的でありながら、それなりに受け入れられていた。多彩な百姓達が、それぞれのコミュニティ間で助け合いながら生活していた。俗に言う「一つの天職を全うする」とか「ワークライフバランス(仕事と生活を分ける)」といった考え方がこの時代にはなかった。

もう一度、この東洋的思想に立ち帰る価値はある。

 

今までの日本では、生業は一つと相場が決まっていた。しかし、これからはテクノロジーで「専門性の代替」が可能となる。レオナルド・ダ・ヴィンチのような真のマルチタレントを持っていなくても、テクノロジーを駆使すれば百姓的な生き方が実現できるのだ。

「歌い手」「ボカロP」「絵師」「ブロガー」「スカイプ講師」・・・ 彼らはプロではないが、テクノロジーに支えられて「生業」を作ってきた人達だ。今後、さらにこの流れは加速する。

 

百姓同士の「コミュニティ」は、サイコパス的リーダーが統治する「会社」よりも開放的で、流動性が高い。理念に賛同する者だけが寄り集まり、ややこしい縛りを受けずに純粋な努力ができる。

 

そして今後、意思決定のスタイルが変わる。

「個人」としてではなく、自分の属するコミュニティの利益を基準に判断する必要がある。「自分のグループにとって為になる選択とは何か・・・」と問い続けるのだ。それはブラック企業的な、「会社のために死ね」という圧力とは異なる。「主体的な参加意識」が重要視され、「抜けたければいつ抜けてもいい」という身軽さを持っているので、自発的にこの考え方を身に付ける。すべての人が「今の自分の居場所が好きだ」と言える時代だ。

 

具体的には、事項で説明するトークンエコノミー」がコミュニティ形成の基盤となる。さらに、コミュニティの利益を考える上で役立つのがAIの統計的判断や最適化だ。

コミュニティのようなマクロの系で利益を考えるとき、統計的処理が必須となる。第三者としてAIが弾き出した方針をもとに、各々がフェアなプレイをする。

個人主義を捨てた日本人はこれらのテクノロジーを受け入れやすい。「自然」を体現する東洋思想の人間にとって、始まりやルールが「自分の意志」だろうが「AIの意志」だろうがどうでもいいのだ。一方で、西洋個人主義の国ではAIは「異質なもの」として排除する動きが続くだろう。

 

 ③会社が変わる

時代の変化に応じて「会社」の在り方も変わる。

今の会社は「閉鎖的」かつ「固定的」で、仕事仲間というより教団だ。日本の過労死や残業といった問題がムラ社会としての「会社」を表している。日本人は「趣味仲間」のためには死なないが、「ムラ社会」のためには死ぬことができる。こうした洗脳は、テクノロジーがもたらす変化によって解かれる。

 

「仮想通貨」は、日本を「地方分権型」の世界に変える。

現在の体制は、日本銀行を中心に一律の貨幣で統治された「中央集権型」だ。

 

具体的には、各コミュニティ独自の経済圏を作ることができるようになる。

これは「トークンエコノミー」と呼ばれるもので、各コミュニティが信頼によって成り立つ通貨を流通させることだ。気づいていない人も多いが、僕らが”円”を用いる限り、何らかの形で利益が吸い上げられてしまうのだ。

そもそも「起業するなら銀行にお金を借りて、いずれは上場して・・・」という堅苦しいスタイルを取る必要もない。ネットで「こんなことをやりたい」と言えば金は集まり、賛同する人達と仲良くモノを作り業界を盛り上げることができる百姓のコミュニティだ。研究をしながら経営をしたり、看護師をしながらモデルもできる。転職しなくても趣味を生業にできる「ワークアズライフ」の時代だ。

 

各々が「社会の歯車」ではなく「舞台の主役」として、様々なステージで多様性を発揮できる。波を待つのではなく、波を創るサーファーになれる。

今はまだ「株価がスゴい」程度の認知だが、仮想通貨の本質を人々が理解し利用するようになれば、間違いなく世界は変わるだろう。

 

サイコパス的リーダーにとって、日本人の不安定なメンタリティは格好の獲物だった。あたかも「会社」が唯一の居場所であるかのように思わせ、孤独感を癒しながら帰属意識だけを高めることで都合のいい歯車になるとよく分かっていた。

 

しかし、「都合のいい歯車」=「ほとんどの日本人」はAIの導入や機械化により代替されるようになる。その多くは仕事に本質的なやりがいを感じていない。「弁護士・会計士・銀行員・商社・広告代理店、英語が話せるだけで中身のない人間...レジ打ち・清掃員・運転手・事務員...」

 

「ネームバリュー」や「年収」といった化けの皮は剥がされ、代替可能なものから確実に置き換えられていく。「本質的に価値を生み出すもの」が重視され、歯車のような人間は不要になる。この改革は、人々が目を覚ます契機となる。

 

それは恐ろしいものではない。 

僕らには百姓的な生き方が合っているので、それを歓迎するべきだ。このような仕事がなくなったとして、人間らしい才能を生かす余地が生まれるというだけだ。

今はまだ、その実感が湧かないかもしれない。自分の才能に気づく猶予もなく、流れ作業で歯車になった人がほとんどだからだ。歯車としての存在意義をもってしまったかもしれない。「収入」や「企業ブランド」にあやかってマウンティングすることが、本質的なやりがいの代理満足になった人も多いだろう。

 

僕は、つまらなさそうに仕事をする人に対して「早く機械に代替されるといいですね。」と一瞥する。これから先、働きたくない人を無理に働かせるのはむしろ非効率だ。働くのをやめても、「ベーシックインカム」で最低限の生活は保障されるだろう。逆に、このような措置なしで新たなテクノロジーを導入できるはずがない。

 

時代やテクノロジーの進歩に伴い、「何が合理的か」という判断基準も変わっていく。 個人主義の限界は、「理想的な個人が集まれば理想的な集団ができる」という幻想、合理性のパラドックスに表れている。たしかにコミュニティ単位で利益を考えるのは複雑だ。しかし、その判断をAIに任せることで日本人好みのフェアプレイが愉しめるようになる。AIは「一人勝ち」するような選択を取らないからだ。このような戦略が可能になったのも、ひとえに技術進歩のおかげだ。

 

 

サイコパスの行方

従来のリーダーは「ワンマンプレイ」で「自分が最強プレイヤー」で「経済的利益こそが勝利」というタイプだった。

このような人を「サイコパス的リーダー」と呼んだ。

 

一方これまでの議論から察するに、次世代のリーダーは「共感能力が高く」「他人の専門性を見分ける鑑識眼をもち」「マクロな利益を考えられる」タイプとなる。

 

しかし、サイコパス”的”リーダーの時代が終わるからといってサイコパスが居なくなる訳ではない。先見の明と自制心をもつサイコパスなら、この「次世代リーダー像」の仮面を被って振る舞うことも容易い。

 

こうしたサイコパスのリーダーは、すでに「お互いの専門性を共有し”チーム”として共通目的を目指すのが合理的」という解に辿り着いている。コミュニティを形成し、「ワークアズライフ」の感覚で社会に確実な価値を提供しているのだ。

 

自己利益を最優先するサイコパス的リーダーのおかげで「一人勝ちはフェアじゃない」という意識が根付き、フェアなゲームを提供するような技術を受け入れる土壌ができた。それが実現したときサイコパス的リーダーの台頭は終わる。今の地位にしがみつけるのは、せいぜい淘汰から生き残った大企業くらいだろう。

 

今度はサイコパスが「合理的なプレイとは何か」を考え直す番となった。ゲームのルールは変わりつつある。

 

 

参考

 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)