サイコパスを操作する

サイコパシーの理解から対策まで

サイコパスと発達障害者

人間は、感情的な結びつきから社会を作り上げてきた。

 

「道徳的社会化」とは、罰学習による良心の形成過程だ。

ベルの音と同時に電気ショックが与えられたマウスはベルの音を恐れるようになる。これを「恐怖条件づけ」と呼ぶのだが、人間に見られる「怒られたことは繰り返さない」という傾向はこの原理で説明がつく。そして怒られるような行動を「悪」とみなし、それを自制する意識を「良心」と呼ぶことで「道徳的社会化」が成立する。

 

悪事の多くは集団の利益を損なうため、それを抑制する動き自体は合理的だ。しかし「お前の行動は怒られるから悪だ」という主張には全く根拠がない。電気ショックを恐れないマウスがベルの音を恐れないのと同様に、罰を恐れない人間に罪を自制しようとする意識は生まれない。そして電気ショックを恐れたとしても、ベルの音と電気ショックの間に因果関係を「感じない」場合も同様だ。

 

このような道徳的社会化を苦手とする人がいる。

それがサイコパス発達障害だ。

恐怖心の欠如したサイコパスは罰を恐れない。そのため罪を自制する意識、すなわち良心が形成されにくい。発達障害者は罰を恐れるかもしれないが、その原因が自分の行動にあることを理解できない。「ベルの音」と「電気ショック」に因果関係を見出せず(実際にないのだが)、そのためベルの音を恐れる理由がないからだ。

 

このような人は「とにかく罪を控えた方が身のためだ」という天下り的な理解によって良心を形成する。これを「理性的社会化」と呼ぼう。

理性的社会化は自己利益を動機づけとし、主に「罪のリスト」を学習することで為される。多くの場合「なぜダメなのか」という疑問を脇に置いて行われる作業となるため、退屈さや苦痛を感じやすい。

 

ここで一例を出そう。

これまでの社会では「空気を読む」ことが善、逆に言えば「空気を読めない」ことは悪と見なされてきた。その理由は、近代的産業において均一な集団としてふるまうことが生産性を向上させるうえで重要だったからだ。このとき自己主張の激しい人は様々な形で罰を受けることにより、自らそれを慎むよう学習する。一方でサイコパス発達障害者は「とにかく自己主張は控えよう」と頭ごなしに理解する。彼らにとって「空気を読む」という曖昧な意識は明確なマニュアルが無ければ獲得することが困難な情緒的規範だ。

 

この屈辱的な状況に耐えかねた人から「社会不適合者」として脱落し、「反社会性」や「非社会性」といったスペクトラムの終点に達する。

 

ただしここでの「社会」とは、あくまでも感情的な要素、特に恐怖感情に依存した「道徳的社会化」が為された個人により形成された集団に過ぎない。そして最近では、「理性的社会化」が成された個人による社会形成が注目されるようになってきた。

 

少し前に「ブレインストリーミング」という言葉が流行ったが、この方法は過剰に道徳的社会化された「空気の読める人」には全く向いていない。「他人の意見を否定せず自由に意見を述べる」という単純明快なルールにさえ、自己主張に無根拠な恐怖心を抱くよう条件づけられた人では抵抗が生じてしまう。一方サイコパスや軽度の発達障害者で構成された集団では意思決定が比較的容易になるだろう。

 

これはほんの一例で、周囲を見渡せば合理的な説明で社会化が促されるようになったことに気が付くはずだ。

 

いずれにせよ、集団に属する以上「社会化」を経験しておくことは必須となる。重要な点として、それは単に社会化の方法に多様性が認められるようになってきた、ということだ。これから先、必ずしも情緒的な要素を重視しない社会は現れるだろう。しかし、その中で「あなたは集団の利益のためにどのように社会化してきたか」という点が問われることに変わりはない。

 

「多様性を認める」という言葉は、個人レベルで「障害」と「個性」の境界線を曖昧にしたり「個性」の定義域を拡張することを意味しない。そもそも障害とはある人の個性が彼の属する社会で生活するために困難な場合、そう呼ばれるものだ。そのため「障害」の定義は社会の性質に依存的であり、社会が多様化するほど「どんな人が障害者か」といった区分も多様化する。

 

したがって、個人にもたらされる自由と責任は「どの社会を選択するか」であり、「自分の特性は障害か個性か」ではない。

 

このことを理解しておけば、現在「社会不適合者」の烙印を押されている人にも活躍できる場が存在する、あるいは作れることに気が付く。それは従来にはなかった環境となるため、無限の可能性を秘めていると言えるだろう。