サイコパスを操作する

サイコパスから学ぶ

サイコパスの倫理

M.E.トーマス 著「ソシオパスの告白」は、ソシオパスの著者が書いた自伝だ。彼女は他者との違いをソシオパスという概念で説明がつくことに気が付き、ブログなどを通してソシオパスについて理解を深めている。この本から、彼らと一般的な人の考え方が大きく異っていることが分かる。

 

彼女がサイコパスではなく「ソシオパス」という言葉を使うのは、サイコパスという言葉が狂った人間を指すチープな単語であるという印象を鑑みて、彼女自身は狂ってなどおらず、非常に機能的にサイコパス的な特徴を発揮していることを示そうとしているからだ。

 

それでは、彼女はどのようにして「機能的」なソシオパスになったのか、その説明を見ていこう

 

重要なのは道徳ではなく倫理である

多くの人が「良心」とか「後悔」と呼ぶものは一切ない

道徳の観念を「善悪についての感情的な理解」と定義するならば、そんなものは無関係なジョークのようなものだ。そのため彼女には道徳について関心はほとんどない。

 

社会的認知や共感の専門家であるシカゴ大学のジーン・ディセティは、「道徳意識」ははじめは感情的なものであることを明らかにした。とくに子供は、公正でないとか、傷つくといった社会的状況に対して強く感情的な反応を示すが、子供の感情的な道徳判断は発展していき、成人になると、結果と行動に関連する背外側・腹内側前頭前皮質によって統制されるようになっていく。

 

子供はすべての悪い行為は悪意に満ちていると捉えるのに対して、大人は悪意の程度について道徳的判断を下したり、自己を認識したり軽視したり、その程度を判断していたりする。

 

彼女はひどい行為に及んだとき心配することはあるが、道徳的な強い怒り(良心の呵責)

は覚えない。それについて怪訝な目をする人はいるだろう。だがそんなことはどうでもいいのだ。

 

彼女は、ソシオパスが道徳を感情的に捉えていないのであれば、ソシオパスはより合理的かつ寛容であると主張している。

ソシオパスが引き起こした出来事よりも、精神的に健康であると考えられる集団内で宗教が引き起こした集団ヒステリーなどのほうが、世界に大きな被害や大虐殺を引き起こしてきた。(ただし、その先頭にソシオパスがいて、彼らを先導していた可能性はあるだろう)。

 

ハンナ・アーレント 著 「イェルサレムアイヒマンー悪の陳腐さについての報告」の中で、二十世紀前半に起きた数多くの残虐的行為は、ソシオパスではなく、感情に訴えることによって操られた、共感に富む人々が手を染めたものであると示唆されている。

 

この彼女の言い分は、彼女が他者を操り傷つけたことを正当化するものというより、純粋に合理的な態度の普遍性について述べているものだ。道徳を感情的に理解しているからといって、常に善い人であることは不可能だ。「道徳感」をもっているかどうかは重要ではない。

 

ソシオパスには「善いことを行う」という道徳的衝動がないと思われ、自分自身の利益追求するという理由で道徳的にふるまう。

 

刑法では、犯罪とみなされる不法行為に対して「自然犯」と「行政犯」という二種類の概念がある。前者は「それ自体が間違っている」もので、殺人、窃盗、強姦などがある。後者は、「本質的にはかならずしも誤りではないが、社会の目的を達成するために禁止されている」もので、公共の福祉の維持を目的としている。

 

自然犯を扱う法律は一般的には不変だが、行政犯に関する法律は、状況の変化に合わせていかなければならないので、変化しうる。

 

この二種類の分類を行うことは難しいが、ソシオパスの個人的な世界では、「自然犯」を構成するようなものは何もない。「何かが間違っているから」という理由だけで、その行為を控えなければならないと感じることはない。

 

誰もが決断を下すにあたって、「近道」を用いる。

共感性に富む人々は、どのように行動するかを決めるために、ただちに情緒的な近道を用いるかもしれない。ソシオパスはこういったことをしないし、できないので、他の近道を思いつく。

 

多くのソシオパスは、「なるようになる」とか「自分の利益が第一だ」といった近道を使う。自分の人生で自己の利益を最大化する合理的な方法とは、自己の欲求を満たすことだけを考え、他者の欲求を無視することだと決めている。

 

ソシオパスの中には、自己の衝動をある程度抑えて、刑務所で過ごすのは自己の利益に背くと判断し、重大な法律違反を避けるようにしている者もいる。彼女のブログには、そういった機能的なサイコパスがどのようにして衝動を抑えているのかが書かれている。

 

「こんな馬鹿を殺して満足しても、刑務所暮らしの不便さには釣り合わない」

「いかなる理由でも私が決して超えることのない微妙な一線がある」

「私は人を殺さないと決めたのだから、この馬鹿を刺したりはしない」

 

こうした中で、特に印象的だったのが次のものだ。

「道徳感を抱くのは重要ではない。倫理こそが重要である。」

 

 

ソシオパスの「規範」の共通点として、かならずしも集団の行動を定める暗黙の了解や慣習という、社会の優勢な基準に沿っているわけではない。たとえば、自分の妻(優しく扱う)や自分の従業員(優しく扱わない)と向き合うときに、自分自身の行動基準をもっているソシオパスの薬物売人がいる。

 

分かりやすい記述を最後に紹介しよう。

私は「知的」なソシオパスである。犯罪に手を染めないし、人を傷つけることに快感を覚えないし、とくに対人関係の問題もない。

私は完全に共感性に欠けている。しかし、ほとんどの場合、それを長所だと思っている。

私は正邪の差をしっていて、善を為したいだろうか?

もちろんだ。酢よりも、蜜の方が多くの蠅を採ることができる。

平和で、秩序ある世界のほうが、私は快適に暮らすことができる。では、それが「正しい」から、私は法を破ることを避けているのだろうか?

答えは「いいえ」だ。

法を破ることに意味がないから、それを避けているに過ぎない。

私が気に入った職業でたくさんの金を稼ぐ能力がないならば、犯罪を試みて、利益を得ようとするかもしれない。しかし、私の職業で、犯罪の人生が意味があるような本当の大当たりをしなければならない。

あなたが他者にひどくあたると、彼らもあなたに仕返しをする。

私はキリスト教徒ではないが、「己の欲するところを人に施せ」は効果があるのだ。