サイコパスを操作する

サイコパスから学ぶ

サイコパスに良く支配される方法

 

ニッコロ・マキャヴェッリは、読書を通して諸国の栄枯盛衰を知り、それから導き出される支配者の実践的知識として「君主論」を書いた。

 

これから僕は、「君主論」を通してサイコパスマキャベリズムを語り、サイコパスに支配される方法を語ろうと思う。

 

 

「ダークトライアド」は、人間の邪悪な3つのパーソナリティを指す言葉だ。

それは「ナルシスト」サイコパス」「マキャベリズム」である。

 

マキャベリズムは残酷で狡猾な支配者の行動規範といわれている。

だとすれば、サイコパシーはそれを行うための精神的基盤だ。

 

そのため、殆どの人はマキャベリズムを知ったところで実践には至らない。

しかし、彼らの行動規範を理解することで、彼らに「味方」と思わせる方法が分かる。

 

ところで、個人的にマキャベリズムは必ずしも悪ではないと考える。

その点について考えながら読み進めると面白いかもしれない。

 

 

マキャベリスト的人間観

マキャベリは、人間を次のように見る。

 

”人は軽微な危害については復讐するが、深刻な危害については復讐できない。”

なので、復讐するときには徹底的にする必要がある。

 

 

”人間というものは、確かな経験を目にしない限り、新奇な事柄を真実とは信じない。”

なので、自分の要求や新たな規則については、目に見える結果を示すことで”納得感”を与えることが重要になる。

 

 

”人間というものは、危害を加えるだろうと信じ込んでいた人から恩恵を受けると、その者に対してより一層の恩義を感じる。”

だから、恩を売って人々から搾取したければ、気前のいい人であるよりも、まずは恐れられる人であるようにした方がよい。

 

 

”人民は、貴族に対して抵抗できないことが分かると、一人に名声を集め彼を君主にして、その権威によって守ってもらおうとする。”

だから、不満の募った人々の心を掌握するには、人々に対して自分が有能な味方であることを示し、権威をもつことが重要になる。

 

 

”人民は、正義によって満足させることができる。”

だから、人々に少しの理不尽さや苦痛を容認させるためには、彼らに正義感を与えるとよい。

 

 

”人間というものは恩知らずで、移り気で、猫かぶりで、空とぼけていて、危険を避けようとし、儲けることにかけては貪欲だ。”

信義や愛情深い支配者であることを示したところで得られる忠誠心は不安定なので、罰への恐怖財産への欲望を煽り支配できる能力も重要だ。

 

 

”人間というものは、恐れられているものよりも愛されている者のほうを、より躊躇うことなく害するものである。”

どちらかと言えば、愛されるよりも恐れられる支配者である方がよい。

 

 

”人間というものは、財産を奪われたことよりも、父親の死のほうを早く忘れてしまうものだ。”

なので、味方につけたい人々から金銭的に搾取するのは良い方法ではない。逆に、恩恵によって味方につけることは容易い。

 
 

”人間は邪悪であり、君主に対して信義を守らない。”

なので、君主も人々に対して無闇に信義を守ろうとする必要はない。

 

 

”人間は極めて単純で、やすやすと目先の必要性に従ってしまうので、騙そうとする者は常に、騙されるがままになっている者を見つけるであろう。”

つねに他人を手放しで信頼すれば呆気なく裏切られるが、騙す機会をうかがっておけばそれを利用することができる。

 

 

”大多数の人々は、名誉も財産も取り上げられなければ、どんな時でも満足して生活する。”

なので、正義感といった名誉や財産を与えることは、人々を味方に付けるうえで最優先すべき事である。

 

 

”君主政体が発足したときに敵対していた人々でも、保身の為にその君主政体を頼りにせざるを得ないと考えた者は、君主に極めて容易く味方に引き入られる。”

だから、時に悪徳に振る舞わなくてはならないときでも、そうした支配者が人々から”必要とされる理由”を作り出すことで、むしろ忠誠心を引き出すことができる。

 

 

”しかも彼らは、自分たちが抱いていた悪しき考えを実際の行為で打ち消す必要があると感じているだけに、それだけ一層忠誠心をもって君主に仕えることを余儀なくされるのである。”

なので、かつて敵対心を抱いていた者に対してはその事実を十分に指摘することで、より献身的に従わせることができる。

 

 

 要するに人間は、「臆病で形だけの正義感が強く、目先の利益に弱く、騙されやすく、移り気で、保身を第一に考え、利益をもたらす者に忠誠心を抱く」と言える。

 

これが邪悪な見方だが、それが実際に間違いかどうかは別の話だ。

 

そして、世の中はこのような人々で溢れているということを理解し、その性質を利用しなければ君主も国も破滅するので、このような考え方は合理的なのだ。

 

 

君主としての心構え

マキャベリはさらに、これらを実践する上で重要なことを指摘している。

 

”人間は甘やかされなければならないか、抹殺されなければならないか、そのどちらかである。”

 

 

軽微な危害を加えれば復讐されかねないので、誰かに危害を加える場合には、復讐を恐れなくてもいいように為されなくてはならない。

 

 

”そして、為すべきすべての危害を十分に検討し、毎日危害を繰り返さないよう、すべてを一気に行う必要がある。”

 

 

いたぶるだけの危害は憎しみを生んでしまう。

一瞬の危害は必要性を示せば正当化される。

そういう生き物なのだ。

 

 

”また、危害を繰り返さないことによって人々を安心させ、恩恵を施して彼らを味方につけなければならない。”

 

 

恩恵については、よりよく味わうように、少しずつ。

 

 

”どんな時代状況においても、自分の市民たちが国家と彼とを必要とするための方法を考えておかなければならない。

 

 

”「どのように生きているか」と「どのように生きるべきか」ということは非常に懸け離れているので、為すべきことのために現に為されていることを蔑ろにする者は、自らの保持よりもむしろ破滅を学んでいるのである。”

 

 

なぜなら、全ての点で善を為そうとする者は、必ずや善からぬ者たちの中で破滅することになるからである。

 

 

そういうわけで、君主がその地位を保持しようと望むのであれば、善からぬ者にもなりうることを学び、必要に応じてそれを用いたり用いなかったりするべきである。

 

 

”善いと思われる資質を全て身に付けることも、それらを完全に守ることもできない。それというのも、人間の諸条件がそれを許さないからである。”

 

 

また、悪徳なしには君主の地位を救うことが困難であるのなら、そういう悪徳の汚名を受ける羽目になることを気にかけてはならない。

 

 

”気前が良いと受け取られるように気前の良さを用いると、それは君主を害することになる。”

 

 

そのような君主は、そうした事業に常に自分の全財産を使い果たすことになるだろう。

 

 

そして結局は、気前が良いという評判を保とうとすれば、異常なまでに人民を抑圧し、重税を課し、そのために臣民たちは君主に憎悪を抱くようになる。

 

 

さもなければ、君主が貧乏になってしまったために、彼はだれからも尊敬されなくなってしまうであろう。

 

 

したがって君主は、自らの打撃を被ることなしには気前の良さが認められるようにこの美徳を用いることはできないのだから、賢明であるなら、ドケチという評判を気にかけてはならない。

 

 

しかし、あなたが君主の地位を獲得する途中なのであれば、気前が良いというように受け取られるのは大いに必要である。

 

 

結局、君主が存続する手段として悪徳を正当化している。

たしかにそれは事実だが、それを非難する人もまた、常に善であることはない。

マキャベリは、何も常に悪徳を勧めているのではない。

 

 

ここで「人々」ではなく、君主と近い関係にある「側近」へ視点を変えてみよう。

 

 

マキャベリスト的支配者に気に入られる

君主の身近にいる人たち、すなわち「側近」が優れた人物であるほどその君主は優れていると評価されるので、君主はそのような人を欲する。

 

そして思慮深い君主であれば、そのような側近を丁重にもてなしながらも、裏切れるほどの力は与えず、結局は「忠誠心の高さ」でその人の扱い方を決めることになる。

 

 

マキャベリは、側近について次のように述べている。

 

 君主がどのようにすれば側近を見分けられるかについては、次のようなやり方があり、しかもそれは決して間違うことはない。

 

 

”すなわち、側近が君主ではなく自分のことを考えている時、あるいは自分の利益となる行動だけをとっているとき、そのような者は良い側近とは言えず、信頼するべきではない。”

 

 

”他方、君主の方では、側近を善良に保つために、側近のことを思い、側近に敬意を表し、側近を豊かにし、君主への恩義を感じさせ、名誉と責任を分け与えなければならない。”

 

 

それは、側近に自分は君主なしではありえないということを分からせるためであり、多大な名誉はそれ以上の名誉を求めさせないためであり、多大な富はそれ以上の富を望まないようにするためであり、多大な責任は改変を恐れるようにするためである。

 

 

したがって、側近たちが、そして側近の取り扱いについて君主が、以上のようになった時に、彼らは互いに信頼しあうことができるのである。

 

 

そうでないときには、つねに、どちらにとっても結果は有害であろう。

 

 

君主と側近は互恵関係を結ぶことができる。

 

逆に言えば、あなたが彼から良い待遇を受けていないとき、それはあなたが無能であるか、彼が無能であるか、そのどちらかだ。

 

 

また、彼に忠誠心を示す必要があるのだが、このようなとき、大抵の人は”媚びを売る”という過ちを犯す。

 

ここで私は一つの重要な問題、つまり、君主が極めて思慮深いか、あるいは賢い人選をしない限り、そこから身を守るのが難しい誤りについて触れずに済ませたくない。

 

 

それは「こびへつらう者」のことであるが、宮廷はこうした連中に満ち溢れている。

 

 

なぜなら、人間は自分自身のこととなると自らを満足させようとするあまり、簡単にたぶらかされて、この「こびへつらう者」という疾病から身を守るのは困難だからである。

 

 

そして身を守ろうとすると、軽蔑を招くという危険を冒すことになる。

なぜなら、君主に本当のことを言っても君主の機嫌を損ねないということを人々が理解する以外、こびへつらいから身を守る方法はないからである。 

 

 

 だが、誰もが君主に本当のことを言えるならば、君主は尊敬されなくなるのである。

 

 

したがって、思慮深い君主は第三の方法を選ばなければならない。

 

 

”賢い人々を選んで政府に召集し、この選ばれた者たちだけで本当のことを語る自由な機会を与えるのである。”

 

 

しかも、自分が彼らに尋ねた事柄についてだけ語らせ、その他のことについては語らせないようにして、—とはいえ、彼らにはどんなことでも尋ねなければならない―彼らの意見を聞かなければならない。

 

 

”そして、これらの助言を受け入れるにあたっては、各人が自由に本当のことを語れば語るほど、それだけ一層彼らの助言が受け入れられるのだということを、彼らの一人ひとりに対して分からせるように振る舞わなければならない。”

 

 

それどころか、誰かが、何者かを慮って自分に本当のことを言ってないことに気が付いた時には、怒らなくてはならない。

 

 

ここまで読んでもなお、媚びを売ろうとする人に対して言うことは何もない。

 

僕自身、毎日のように飛び交うお世辞や媚びにうんざりしているのだが、それは互いに何のメリットもないからである。

 

 

「経営者視点」という言葉を使って仕える人に都合のいい役割を期待する人がいるが、このような人は非常に愚かで、そのような人に媚びへつらう人も同様に愚かだ。

 

 

むしろ経営者が「従業員目線」を確立し、そのメリットを目に見える形で示し、敬意をもって立場を明確にしたうえで従いたいと思わせる方がよい。

 

 

自分の利益を最優先することはサイコパスの行動原理だが、賢明な人であれば、その中で他者への配慮が生まれるのは必然だ。

 

 

したがって、こちらへの配慮を欠いておきながら、自分への配慮だけを求めるような人は無能なので、たとえサイコパスでなくとも縁を切った方が有益なのである。

 

これは従う側にも言えることだ。

 

 

ところで、マキャベリズムが現代でも通用するのか」という疑問は重要で、彼自身も次のように述べている。

 

ところで、個々の事例をもっとよく見てみると、私は次のように言いたい。

 

それは、性質や資質の変化が何も見られないのに、今日は日の出の勢いだった君主が明日には滅亡する、ということである。

 

私が思うに、それはつまり、そういう君主は何から何までに頼っていたために、運が変転するや否や破滅したのである。

 

次いで、私は、その君主は、行動の仕方が時代の特性に合っていたから、幸運に恵まれたのだと思う。

 

同様に、行動の仕方が時代と合わなくなったために不運に見舞われたのである。

 

”運命は時代状況を変化させるが、人間は自分たちのやり方に固執するので、両者が合致している間はうまくいくが、食い違いが生まれると直ちに不運に見舞われるのだ。”

 

 

サイコパス的リーダーは時代遅れ? でも書いたように、従来のサイコパス的リーダーが成功する時代は終わりを迎えつつあるのかもしれない。

 

しかしマキャベリスト的リーダーは、その性質からして時代の変化に柔軟だ。

僕が前回で示したかったのは、まさにこのことだ。

 

そのようなリーダーを見極め、彼らに良く支配されることは、たとえその人がサイコパスであっても有益である。

 

逆に、悪徳を非難するだけで結果が出ないリーダー、フォロワーは、机上では美しくとも実態は有害だ。

 

 

僕も「行動の一貫性」や「忍耐」には興味が無い一方、「行雲流水」や「互恵関係」といった言葉を好んで使い、そのように”生きている”。

 

それは、こうした点で理にかなっていると考えているからだ。

 

 

 

”「どう生きているか」と「どう生きるべきか」は懸け離れているのである。” 

 

 

参考

君主論 (光文社古典新訳文庫)

君主論 (光文社古典新訳文庫)