サイコパスを操作する

サイコパシーの理解から対策まで

サイコパスとジレンマ

ロッコのジレンマ

 

「トロッコのジレンマ」という有名な問題がある。

あなたは次の問いに対して、YESかNO、どちらを答えるだろう。

 

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サイコパスは、迷うことなくYESと答える

つまり、目的のために人を殺す行為を認める。

 

 

道徳とは「何が善くて何が悪いのか」という意識のことだ。

あなたが道徳的だと思う行為なら、それについて「いいね」を押せる。同様に、他人が道徳的行為を取った場合にも「いいね」を押せる。

 

あなたの友人がTwitterで「5人を救うために1人を殺してきた」と呟いたら、そのツイートに「いいね」を押せるだろうか。逆に、「5人を救えるからといって、1人を犠牲にするのは悪い事なので、何もしなかった」と呟いたならどうだろう。

 

 

僕の中のジキル博士は、前者を「非道徳的」だと言う。

つまり「善悪の観念に基づいた意思決定ではない」と主張する。

それは「5>1」という、算数の計算に基づいた意思決定だ。

 

 

仮にこの問題がティーカップについてのお話なら、誰もが前者を選択するだろう。そして「今日、私は5個のティーカップを救うために1個のティーカップを犠牲にした。」と言われても、「それはよかったね。」とならないだろうか。

 

 

ティーカップは”モノ”だ。そしてサイコパスは、人を”モノ扱い”する。

 

彼らはおそらく、「どちらの行動が道徳的か」と聞かれてもピンと来ない。ピンとは来ないが、頭でそれを理解している。だから ”一見どこにでもいる青年” を演じることもできる。

 

「幾らのお金をもらえるなら、猫の首を絞めて殺しますか?」という質問をしたとき、一般回答者の平均は1000万円だった。サイコパスなら1万円でも引き受けるだろうし、単純な好奇心があればタダでも殺せる。

 

「一匹殺したから何だっていうんだ。猫ならたくさんいるだろう。」と。

 

 

むしろ興味深いのは一般回答者の方だ。彼らは「お金」と「命」を秤にかけて、あるいは「物質的利益」と「感情的損失」を秤にかけて苦悩する。

 

僕の中のハイド氏は、これを「道徳的ジレンマ」とは呼ばない。彼らはアプローチを間違えている。「道徳的」と思われた方が ”得” ならそうすればいいし、そうでないなら、1円でも殺した方が得だ。恐れや罪悪感、後悔、良心の呵責などは、意思決定の時には関係のない事象だ。「感情的な損失」など存在しない。

 

一方、ジキル博士の道徳はとてもシンプルになっている。

「自分がされて嫌な事は、他人にもしない。」

基本的にこれだけだ。

 

ロッコのジレンマで言えば、自ら手を下すような真似はしない。犠牲者5人がたとえ家族や親しい人の集まりでも、僕が恣意的に命の価値を決めるのは間違っている

 

5人には気の毒だが、それは「運命」だと諦めてもらうしかない。ここでもやはり、罪悪感や良心の呵責は出てこない。僕はこれを「冷徹な善」と呼んでいる。

 

もしジキル博士がこのゲームの5人の犠牲者に含まれていたら、ただ「ついてないなぁ」と思うだろう。ハイド氏なら、レバーを持つ人間に功利主義と罪悪感を叩き込んでやりたい。

 

 

よくある話だが、聖職者はサイコパスの多い職業の8位だ。また、チベット僧の脳はサイコパスのそれと似ている。

 

僕はジレンマを抱いたとき、決まってどちらかの人格に収束する。このことを知っておくだけで、普段の意思決定がとてもスムーズになる。

 

どちらの人格も ”一方だけ” なら破滅的だが、「必要性」に従ってサイコパスを操作すれば快適だ。これはマキャベリズム的な考え方で、ジキルとハイドを矛盾なくまとめてくれる。マキャベリは、次のように言っている。

 

”善いと思われる資質を全て身に付けることも、それらを完全に守ることもできない。それというのも、人間の諸条件がそれを許さないからである。”

 

大多数の人間が「1000万円なら猫を殺す」と頓珍漢なことを言う世界なので、”常に” 善であることもまた破滅的だ。そしてジキル博士はハイド氏の存在に気付いているので、「私こそが善だ」などと自惚れてはいない。

 

 

結局何がいいたいのかといえば、「ジレンマを抱く人は、問題を間違えているのではないか?」ということだ。無益な苦悩はただただ無益で、善を為すことすらできない。

 

「悪徳によって得られる利益」と「良心の呵責」を秤にかけて悩むような人は、僕に言わせればそもそも道徳的ではない。

 

であるならば、早々に開き直ってしまうのが吉だ。

そして、開き直り方には2つある。

 

1つ目は、「ある人は悪徳を被って当然だ」と考えて、自分の利益に満足する。

2つ目は、「冷徹な善」を積むことに幸せを感じればいい。

 

そしてできることなら、それを使い分ける方がいいだろう。

 

僕らの脳は、これを使い分けられるようにできている。そうでなければ、善良な市民は自分の給料をアフリカに寄付しなければならない。

 

心理的な距離が遠い人に対しては、「共感」や「良心の呵責」は生まれにくいのだ。(これが僕らの中にある”プチサイコパシー”だ)

 

あらゆる人に対して心理的距離が遠いのがサイコパスで、彼らの振る舞いは常に1つ目の開き直り方をしている。

 

それについて義憤を感じるのはもっともだが、あなた自身もそう振る舞う時があるということを認められなければ、未来のジレンマに打ち勝つことはできないだろう。