「反共感論」 -共感性と良心について-

 

私はこれまで、サイコパスには情動的共感性が欠けており、反社会的行動を学習する可能性が高くなるということを説明してきた。読者の中には「共感性の欠如=悪」という価値観を抱くようになった人もいるかもしれない。

 

それは大きな間違いである。たしかに情動的共感性の欠如は、冷酷な反社会的行動を行うのに必要な素質ではある。しかし、それ自体が悪なのではない。むしろ共感性の高さが原因で暴力が引き起こされる場合すらあるのだ。

 

今回はポール・ブルーム 著「反共感論」を参考に、共感性と良心の関係を見ていこう。著者は一貫して「情動的共感を道徳的指針とすることは間違いである」と論じている。

 

あらためて共感性について

共感の定義には色々ある。最もポピュラーな定義は「他者が経験していると自分が考えるあり方で、自らが世界を経験するようになること」だ。私がハンマーで自分の手を殴ろうとしているとき、あなたは眉一つ動かさず直視できるだろうか。おそらく、多くの人は顔をしかめてしまうだろう。

 

私自身がハンマーで殴ることを恐れていなくても、”もしあなたが私の立場なら” 恐ろしいと感じてしまう。このように、他者の経験を ”自分が考えるあり方で” 、情動を伴って経験されるものを特に「情動的共感」と呼ぶ。

 

一方で私は、あなたがハンマーで自分の手を殴ろうが気にしない。それでも、あなたの顔は恐怖で歪み、その行為を恐れているということは分かる。このように、情動を介さずに相手の感情を”他者視点で理解” するようなものを「認知的共感」と呼ぶ。

 

この例では、あなたはごくありふれた人間、私は情動的共感が欠如した人間として描いた。このタイミングで「どちらが良心的な人間だと思いますか?」と聞かれたら、多くの人は前者だと答えるかもしれない。 しかし意外なことに、道徳の指針として相応しいのはむしろ「認知的共感」の方なのだ。

 

 

情動的共感の問題

「中国では現在、11億9850万人が暮らしている。これが何を意味するかを感じるには、単純にあなたの独自性、重要性、複雑性、愛情を取り上げて119850万倍すればよい。そこに何か感じるだろうか?何も感じないはずだ。」 アニー・ディラード

 

 

情動的共感はスポットライトに喩えられる。

共感の対象となるのは一人か、せいぜい数人程度だ。それは温かく情緒的ではあるが、一方で共感の対象とはならなかった人々に対しては盲目的である。さらには数的感覚に欠け、共感の対象となった人に対してさえ、近視眼的な行動が引き起こされてしまう。

 

少し前に日本では麻疹が流行した。当時、親の多くは子供にワクチン接種を受けさせることを望んだだろう。だが大抵の子供は注射を嫌がるものだ。そこで泣け叫ぶ姿に共感し診療をやめてしまえば、命を落とすような事態になるかもしれない。

 

このように、他者の苦痛に囚われていると、苦痛に陥った人々を長期的に援助することが困難になる。というのも、長期的な目標を達成するためには短期的な苦痛を与えざるを得ない場合が多々あるからである。

 

このことは、医者の立場を考えてみるとより明らかだ。患者の苦痛に共感してしまう医者は狼狽しきって手術やセラピーどころではない。高い共感性は社会的に望ましい資質であると考えられがちだが、それは認知的共感に限られる。

 

 

また、情動的共感は自動的に起こるものであり、そこから引き出される主観的な言動は、共感の対象とならない人にとって”独善的”に映ることが多々ある。

 

私たちはネコを虐待している人を見ると、その人を罰したくなる感情に駆られる。それは「ネコに共感したからだ」と解釈できるが、よく考えてみると、”ネコ自身が” その人を罰することを望んでいるかなど、私たちには知る由もない。

 

つまり情動的共感は、認知的共感が「その人が実際に望んでいるであろう行動」を導くのとは対照的に、「相手の立場に置かれたときに”自分が”望むであろう行動」を自動的に引き起こそうとする。たまたま自分と相手の望みが一致すればよいのだが、多くの場合はそうではない。実際、そのようなケースは身の回りにありふれている。

 

 

そうはいっても、情動的共感が良心的な行動を導くと考える人も多いだろう。たとえ情動的共感がスポットライトのように範囲が狭く、数的感覚に欠けた近視眼的なものであれ、ヒトは他者の苦痛を自分事のように感じることで、良心的な行動を取るようになるのだ。と考えるかもしれない。これはまさに「道徳的社会化」である。

 

私は実際、サイコパスの病理を解説する上でこのような説明をした。すなわち「サイコパスは他者の苦痛を代理経験できないために、非道徳的な行動ですら合理的手段として学習できてしまう」というものだ。

 

しかしそれは、情動的共感をもつ人が善人でサイコパスが悪人であるという意味ではない。厳密に言えば、サイコパスは先天的な悪人ではなく「反社会的行動を手段として学習しやすい素質を先天的に有する人間」だ。そして、実際にそれを学習してしまった ”反社会的な” サイコパスにとって致命的な問題は、もはや「共感性の欠如」ではなく「自制心の欠如」にある。

 

 

さらには、情動的共感性が直接的に良心的行動を導くという論理には飛躍がある。自分が愛情を注いでいる娘が苦しんでいるとき、あなたは彼女の苦痛に共感して彼女を抱き上げ、苦痛を追い払おうとするだろう。たしかにそれにより自分の気分もよくなるので、「情動的共感が良心的行動を導いた!」と考えたくもなる。

 

しかし、単に代理経験している自分の苦痛を追い払いたいだけなら、泣き叫ぶ娘を放って散歩に出かければよい。 そうしないのは、あなたに純粋な利他心があるからだ。すなわち情動的共感は、情動に訴えかけることによって、より直感的に誰かが苦しんでいることを私たちに教えてくれる。情動的共感は親切心を導くのではなく、むしろ既存の親切心を助長する形で機能するのだ。

 

逆に、親切心がなく他者の苦痛に対して快楽を抱くサディストにとって、情動的共感性は嗜虐心を助長する形で機能する。勘違いされるところだが、情動的共感性が欠如したサイコパスにそのような趣味はない。ただ泣き声を煩わしく感じるだけである。

 

次に、路上でホームレスが物乞いをしていた場合を考えてみよう。人はしばしば、そのような姿を目にすると反対側の道を通りたがる。こうした行動は、共感による苦痛を利己的に回避した結果といえる。

 

時にサイコパスは、健常者よりも積極的に人助けをする場合がある。というのも、彼らは他者の苦しみを代理経験せず、ただ相手の感情や求めているものを認知的共感のみに頼って明晰に理解するためである。そこから引き出された行動は純粋な親切心の顕れであるかもしれないし、将来的な利益を見込んでのことかもしれない。

 

 

本書の主張をまとめると、主観的かつ不公平な道徳的指針が不適切なのは自明なので、そのような性質をもつ情動的共感ではなく、理性的な認知的共感によって他者を気遣うべきである というものだ。

 

 その意味において、サイコパスは完璧な聖人にも完璧な悪魔にもなりうる。しかしサイコパスは一般に、情動的共感が欠如した人間ではなく「反社会性パーソナリティ障害」と同列に認識されている。

 

最近、これに関して興味深い議論を見かけた。それは次のようなものである。

サイコパスはいずれ”発達障害”として分類される。そしてこれまでの発達障害に関する事例を鑑みるに、サイコパスへの差別も同様に非難されるべき問題ではないか?」

サイコパスの根本的原因には遺伝的要因が関与する。そのため、サイコパスによる犯罪には免責の余地があるのではないか?」

 

 

サイコパスはマイノリティであり、マイノリティの差別は許されるべきではない。また、彼らを犯罪行為に駆り立てるような遺伝的負因を有するのなら、彼らの犯罪は完全な自由意志ではなく、ある程度の決定論的要素を孕んでいる。したがって、差別を許すべきではないし、免責の余地はある。

 

 

直感的には、この論理は理に適っているように聞こえるかもしれない。しかし、それこそがサイコパスに対する情動的共感がもたらす道徳観である。

 

あなた自身がこの問題を考えるにあたって今回の内容を実践するなら、立てるべき問いは「あなたがサイコパスの立場なら望むであろうことは何か。」ではなく、「サイコパスが実際に望むであろうことは何か。」である。それと同時に、共感の対象から外れた人々 のことも考慮すべきだろう。

 

 

参考

 

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

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