サイコパスを操作する

サイコパスから学ぶ

サイコパスとソシオパスについて適当に語る

 

 

 

基本的にサイコパス冷淡な人、ソシオパス(=反社会性人格障害/ASPD)はキレやすい人として区別できる。

 

より専門的には、前者は情動障害、後者は衝動性と反社会的行動が特徴。最近ではASPDにも遺伝的な要因が示唆されているので、「先天的か後天的か」という区別はあまり役に立たない。(そもそもASPDの診断には”行為障害”が必要条件なので、「若い頃からうんぬん」は両者にとって重要な観点)

 

サイコパスにも「衝動性」や「反社会的行動」の特徴は含まれる。これらはサイコパシー・チェックリストにおいて”行動面”として記述される。言うまでもなく、”行動面”のスコアはASPDの診断とかなり相関する。一方、”情動面”はサイコパスに特異的

 

ブレアの仮説に則れば、「情動面」は扁桃体「行動面」は眼窩前頭前皮質の機能不全と関わりが深く、その程度はサイコパスの中でも個体間で異なる。所謂スペクトラム(連続体)という考え方で、「サイコパスである/サイコパスでない」の二元論は誤り。

 

眼窩前頭前皮質は酒・煙草・出産時合併症などの環境要因によるダメージが顕著で、コレが異常だからサイコパスなのか、サイコパスだから異常になったのかが微妙。有名なMAOA遺伝子変異はこれらの領域に異常をもたらす。しかし症状としてはソシオパス寄り。つまり”情動面”よりも”行動面”に対する影響力の方が大きい

 

一方、ソシオパスは社会がその人格を形成したと考える。すなわち、ある社会では適応的だったはずの人格が、他の社会に移り変わった瞬間に”反社会的”とみなされる。スラム街の人々が日本にやってくれば、彼らの多くはソシオパスと呼ばれるだろう。しかし、スラム街ではその人格は適応的(少なくとも反社会的ではない)かもしれない。問題は「郷に入りては郷に従え」ができない柔軟性に欠けた固定的な人格を有するということ。家庭や学校も社会とみなすことができる。虐待や非行はソシオパスを形成する。

 

 

話を戻すと、サイコパシーはスペクトラムなので複数の「サブタイプ」が考えられる。

 

行動面でスコアの高い「キレやすく反社会的なサイコパスは最も分かりやすく危険。カッとなって殺した割には「反省はしているが後悔はしていない」と言うタイプ。しかし、一見ソシオパスとは区別がつかない。

 

ソシオパスは反社会性それ自体が人格であるのに対し、サイコパスは反社会的手段を単なる合理的手段とみなす。自制心が欠如した者にとって合理的とは「手っ取り早さ」を意味する。前者が反抗期のヤンキーなら、後者はそれを暴力でコントロールする教師に喩えられる。もっとも、人格や合理性がどうのこうのは単なる憶測に過ぎない。

 

 

「自制心のある反社会的なサイコパスは狡猾。反社会的行動はリスクが大きいので、通常は自制される。それは罪悪感からではなく、捕まると損だからという理由。しかし一旦行為に及ぶと、そのスリルやメリットに味を占めてしまう。その際、犯行が”バレないように”行うことに関しては余念がなくタチが悪い。いじめの主犯格や詐欺師、小さい規模ではヒモやサボるのが上手な同僚とか。支配者型から寄生型まで様々。

 

パワハラやDVをする人については、それが「手っ取り早さ」からなのか「権力の誇示」なのかで区別できるかもしれない。つまり、サイコパスは頭ではそれが悪いことだと理解しているものの、人間をコントロールするには恐怖感に訴えるのが「手っ取り早い」ため、それを行う。マキャベリズム的な思想をもっており、普段はクレバーで残忍な上司・恋人かもしれない。

 

一方でナルシストやソシオパスは単純な”怒り”が動機。自分の思い通りにならない人間に対して純粋に腹が立つ。あるいは、過去に受けた精神的虐待の復讐かもしれない。自分はそうして過去から復権できるものの、後になって罪悪感から謝ることが多い。そうして相手は精神的優越を与えられ、共依存の沼に沈んでいく。このようなタイプは普段、傲慢で短気な人かもしれない。...というもっともらしい説明は可能だが、自己愛云々も非科学的で根拠は浅い。それよりも情動障害の有無が一番重要なポイント。

 

 

行動面に問題のない「向社会的なサイコパスは多様な形で潜んでいる。サイコパスは100人に1人と言われるが、犯罪者はそれほどいない。以下は個人的な印象。彼らは恐怖情動の欠如からリスクに無頓着で、大胆かつ刺激的な人物であることが多い。反社会性はないが退屈を嫌うためADHDと類似。しかし注意欠陥はなく基本的に冷静で感情の切り替えが早い。情緒的やりとりには共感性欠如により苦手とする点はASDに類似。しかし認知的共感力が高い場合には他者操作性があり口が達者で魅惑的かつ性的に奔放。合理主義者なので要領は良いが、他者への配慮に欠ける場合は傲慢で無責任な印象を同時に与える。利他性をもつ場合には聖人のような寛大さがある。健常な合理主義者との違いとしては、幼少期に情動障害特有のエピソードをもつ。(e.g. 良かれと思った行動で他人を傷つけた / 何かを怖がったり泣いたことがない)

 

彼らをサイコパスと呼ぶ必要性は疑問に値する。サイコパスという概念を推し進めてきた研究者は、”累犯性の予測因子”としてサイコパスの意義を主張してきたため。しかし、このような情動面の特徴は「Callous-Unemotional (CU)特性」と呼ばれており、遺伝的要因や神経発達的な側面からの説明によりASPDから分離できるかもしれない。サイコパスはさておき、CU特性は発達障害として正式に分類されるか、関連が示唆されているADHDに組み込まれるだろう。

 

 

サイコパスの先天的な情動障害は重要な概念だが、神経可塑性もまた馬鹿にできない。私達が日常的に経験する”恐怖”は、冷静に考えてみると無駄に感情を掻き立てるだけだ。(e.g. トラウマ、嫌われること、権威)

 

恐怖を感じないサイコパスが憧れの対象となっても不思議ではない。ところで、人格はある程度なら認知と行動によって矯正可能だ。恐怖条件づけは”消去”することができる。そして、もともと臆病だった自分は実際にサイコパシーを獲得・操作することに成功している。つまり情動障害を自身の中で再現しているわけだが、反社会性は抑えているのでソシオパスと呼ぶのはふさわしくない。まあ名前はどうでもいい。

 

思いつきだが、サイコパスに憧れる臆病な同志に対して三つの助言を書いてみる。

第一に、その憧れを「中二病」と揶揄する自分自身を抹消せよ。他人から嘲笑されるように感じるのは妄想。本質的には、あなたが自分自身を嘲笑っているに過ぎない。自己実現において適当なロールモデルを持つのは恥ずべきことだろうか?真に厚顔無恥と呼ぶべきは自分自身を含め、それに対して水を差す自覚なき妬みや蔑みだ。知らんけど

 

第二に、理論と実践を徹底せよ。理論を叩き込むことで「理想」のイメージを完璧にし、常に自分が「理想」の姿であるように振る舞え。自身を常にメタ認知し、無自覚なバイアスや振る舞いを矯正することを怠るな。その過程で必要なのは的確なフィードバックと反省であり、後悔や自己否定など役に立たない。

 

第三に、状況によってコントロールせよ。すなわち、社会不適応(ソシオパシー)を起こすべきではない。重要なのは、最終的には「憧れ」を棄て去り「道具」として利用する術を覚えることだ。私たちは社会で生きる以上、何らかの形で”社会化”しておく必要がある。「私はサイコパスだ」というナルシズムに浸っている間、あなたは他者の幸福を自分事のように喜ぶことはできないだろう。その果てに待っているのは孤立しかない。あなたが深淵を覗きこむ時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。多分!