道徳直観主義の批判

「善とは何か」と聞かれれば、私の答えは、善は善であり、話はそれで終わりである。あるいは、「善はどのように定義されるべきか」と聞かれれば、私の答えは、善は定義できないというものであり、それが質問に対して私が言うべきことのすべてである。

 

定義できない”善”を定義する誤り

「善」とは「幸せであること」とする。

いま、彼は幸せである。では、それは善だろうか?

 

この問いは、定義から次のように言い換えられる。

いま、彼は善である。では、それは善だろうか?

 

後者は問うまでもないことで、答えが既に決まっている「既決問題」である。しかし、前者の問いは答えがまだ出ていない「未決問題」である。

 

二つの問いは同じ意味ではないので、それゆえ「善」を「幸せであること」と定義したのは正しくないことになる。

 

これは「幸せであること」をそれ以外の性質に置き換えても成立する。このように、定義できない「善」を定義してしまうことを自然主義的誤謬」という。

 

 

直観主義

理由付けをせずに下された判断は非推論的判断と呼ばれる。

たとえば多くの人にとって「無差別殺人は悪い」ということは、理由や根拠を明確にしてから初めて気づく、というわけではないだろう。

 

このような非推論的判断を下す基盤のことを「直観」と呼ぶ。特に、善悪にまつわる直観に基づいた判断を「直観的道徳判断」と呼ぶ。

 

そして、道徳的な規範理論をつくるときに生じる「規範の中に私たちの直観的道徳判断を”保存”すべきか否か」という問題に対して、YESと答える(つまり、直観的判断には「信じるに値する」ような認識的身分があると考える)のが直観主義である。

 

約5000人に対して「トロッコ問題」の判断を問うた研究では、スイッチ事例で功利的判断を下す人が89%であったのに対し、プッシュ事例で同判断を下す人は11%だった。(厳密には、その判断が「道徳的に許される」と答えた)

 

この直観的道徳判断は、さまざまな「道徳無関連要因」による影響を受けることが示されている。(例:フレーミング効果、呈示順序、抽象性/具体性、そのときの気分など)

 

道徳無関連要因の影響は「許される」という判断から「許されない」という極端な変化はもたらさないものの、直観的道徳判断の「信頼性」を疑うには十分な根拠であるように思える。そこで、次のような論証が進む。

 

  1. 直観的判断はしばしば道徳無関連要因によって影響され、それゆえ直観的判断を生むプロセスはしばしば道徳的真理を”追跡”していない。
  2. それゆえ判断者は、他に特殊な理由がない場合、自身の直観的判断が信頼不可能なプロセスから生産されていると信じる理由があり、それゆえ、その直観的判断を信じることは正当化されない。
  3. ③ただし、他に特殊な理由がある場合(とりわけ、その特定の直観的判断が道徳無関連要因によって影響されていないと信じる理由がある場合)、その直観的判断を信じることは正当化されうる ―ただし、その正当化は直観的判断それ自体による正当化ではなく、他の判断や信念により与えられる(推論的な)正当化である。

 

以上より、直観的判断はそれ自体で信じることを正当化されているとする直観主義は、偽である。

 

「二重結果原則」

先の「トロッコのジレンマ」のプッシュ事例とスイッチ事例の道徳的な差異は(差異があるとして)、次の「二重結果原則」の観点から分析される。

 

:ある行為が善い結果と悪い結果を生むとき、次の条件を満たす限りでその行為は許される。

 

①悪い結果が意図されておらず

 (せいぜい予見可能にすぎず)

②善い結果が悪い結果から生じているのではなく

 (すなわち悪い結果は手段ではなく副作用にすぎず)

③悪い結果が善い結果に釣り合うものである

 

これに合致して、次の「ループ事例」では②の差異(つまり悪い結果が手段か副作用かの違い)のみによって判断が有意に異なる。

 

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感想

直観で判断したクセに「何故その判断をしたんですか?」と聞かれると、適当な理由をでっちあげてしまう人。正しい答え方は「オレの直観がそう言ったのさ...」だ。これは道徳判断だけでなく、ストッキングの好みにまで当てはまるらしい。(実は全部同じストッキングだった)

 

たいていは「自然主義的誤謬」を犯したり、小難しい議論で直観を正当化しようとする。(なら初めから推論に頼る方いい) 

 

もっとも、「自然主義的誤謬」を犯すのは直観主義者でない人の方が多いだろう。功利主義にしても、それを善として(既決問題として)始めているようなものでは?ただし、直観主義は例の論証によって偽であることが示されてしまうのでコチラも分が悪い。

 

人は「二重結果原則」における①意図 ②手段と副作用の違い ③収支 を(変な言い方だが)直観的に考慮して判断を下しているらしい。さらには道徳と無関係な要因にも判断を狂わされる。

 

これらをメタ認知していない人の判断を歪めるには、この馬鹿げた変数を弄ってあげるだけでよいのだろう。「そんなつもりではなかった(意図の否定)」「仕方のないことだった(副作用アピール)」という言い訳はよく耳にする。

 

③の収支については、いわゆる ”うまい話” に対する騙されやすさと関連がありそう。直観的に得だと思った選択肢も、よく考えてみるとカモられていた!という場合とか。直観的に得だと感じさせる要因は何だろう。

 

 

 

参考

 

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学